クラシカル・ホメオパシー

クラシカル・ホメオパシーの特徴 5

ーー ホメオパシーと対症療法 ーー

ホメオパシーが近代医学より優れているのは、「病気を対症療法的に処置しないから」と考える人は少なくありません。僕もそう思っていますが、たとえホメオパシーが対症療法的ではない医学だとしても、その本質を忘れてホメオパシーとレメディーを対症療法的に用いてしまう危険性はいつでもあります。患者の要望に、個々のホメオパスがどう応えるか。これはホメオパス、患者、双方の治療に対する姿勢におおいに関係します。その点、クラシカル・ホメオパシーは、「病気を治療するのではなく、病気を持つ人間を治療する」という基本理念のもと、対症療法的な処置(symptomatic treatment)や対症療法的なレメディーの使い方は極力に避けるべきという姿勢を貫いています。

たとえば、お子さんに関するこんな相談を受けたとします。「子供が急に高い熱を出したのですが…。」多くの場合、急性の子供の病気には高い熱を伴います。このとき、たいていの親がこの熱の上がり方や下がり方を非常に気にします。子供の熱が上がれば、親の心配度数も上がり、親子一緒になって上がったり下がったり。電話を受けると、先ず体温の報告があります。それから「熱を下げるレメディーがないですか。」

もちろんホメオパシーにも解熱効果のあるレメディーはありますが、こういう場合、僕は体温計の数字にはあまり興味がありません。子供の全体の調子(機嫌、振る舞い方、食欲、飲み方、病気になってから変わった様子、病気の他の症状など)が分かれば、この子供に必要なレメディーが決まります。このレメディーを飲んでも熱が下がらない、もしくは更に高くなることもあります。そんなとき熱が下がらなくても、子供の様子を注意深く聞かせてもらいます。「昨日から何も食べたくなかったのに、急にアイスクリームが欲しがっている。」「30分前まで、何もかもがいやで、全く落ち着かすにベッドで右に左に寝返りしたり、掛け布団を蹴ったりしましたが、今は深くて静かな眠りに入っています。」そういう変化に、子供がレメディーのお陰で確実に治り始めていることが表れているのです。たとえ熱が続いていても。

では、熱は一体どういうことかと言うと、子供の自然治癒力がきちんと働いている証拠なのです。病気を治すため、菌やウイルスを殺すため、炎症を納めるため、子供の治癒力が熱を出しているので、熱は抑えるべき悪性のものではなく、かえって歓迎すべきものなのです。病人の治癒力が病気を乗り越えようとして上げている熱を、対症療法的に(解熱剤、レメディー、冷たいタオルなどで)抑えようとする行為は、親の安心のためにはなるかもしれませんが、子供の身体が進めている治癒の過程に抗い、早い完治を邪魔します。もちろん熱が40度以上に上がれば、特別な注意とアテンドが必要になりますが、根本的に健康で大きな慢性病を持っていない子供であれば、熱が一時的にそこまで上がっても、心配する必要はありません。熱は確かにしんどいですね。けれどもその熱は病気そのものではなく、病気の一つの(治癒のための不可欠な)症状です。熱を下げるためレメディーを出す、つまりレメディーで熱を下げようとするのは、言い換えれば、自然治癒を邪魔する対症療法的な処置とも言えるのです。

もうひとつ、例を挙げましょう。

大変痒いアトピー性皮膚炎で悩んでいる人がいるとします。その治療に、主にかゆみに効くレメディーや炎症を抑えるレメディーを探すホメオパスも、クラシカル・ホメオパシーの治療から脱線しています。アトピー性皮膚炎は、病名が連想させるような皮膚という身体の一部の故障や不調に由来する病気ではなく、皮膚炎として表れる、その人の生きる力の乱れや縺れに由来する病気です。その縺れになったきっかけや原因は、個人個人で違います。そのためにクラシカル・ホメオパシーでは、出来るだけその人の全体像(皮膚炎と直接関係ないと思う他の身体の症状や特徴、性格、機嫌、家族関係、才能、好きと嫌い、怖いもの、これまでの病歴など)を把握してから、その人の全体に合うレメディーを決めます。そのレメディーを飲んでも、皮膚のかゆみや炎症はすぐには治らないかもしれませんが、次のセッションでその人の話を聞きながら、ホメオパスは何かの改善に通じるサインを観察します。そこに、この人の生きる力の縺れがほぐれ始めているかどうかを見て、この線で治療を続けることで、皮膚の不調もその内に治ります。

「急がば回れ」ということわざが示すとおり、この対症療法的でない発想を理解することで、治療もよりスムーズに進むことを、クラシカル・ホメオパシーを受ける患者さんにもぜひ知っていただきたいのです。

では、対症療法とは一体どのようなものでしょうか。

病気になったとき、その付き合い方には大きく三つあります。
(1)病気の症状を抑える。
(2)病気の苦しみを一時的に緩和し、楽にする。
(3)病気原因から治して、病人を健康な調子に戻す。

この場合、対症療法は(1)にあたります。病気の根っこをあまり考えずに、主に気になる症状をできるだけ早くなくそう、消そうとする処置です。

高くなった熱を解熱剤で下げる。皮膚の不調、喘息や関節炎をステロイド剤で抑える。高血圧症の場合、血圧を降圧剤で平常値に戻す。頭痛を鎮痛剤で感じられなくする。アレルギー反応(例えば花粉症)を抗ヒスタミン剤で抑える。果たして症状の抑圧なのか、症状の緩和なのか、その境界線は曖昧なのですが、アロパシー的な近代医学はこういった局所的な処置が大変得意です。その名薬の多くは辛い症状に対して劇的な即効性を示します。

とはいえ、病気の対症療法的な処置には限界があります。長い間症状を対症療法的に抑えると(コントロールすると)、多くの場合、身体が薬に慣れて来ます。今度は、薬の濃度や飲む頻度をだんだん上げる必要が出てきて、副作用も伴います。しかも、薬を止めようとすると、元々の症状が薬による制圧に反発するかのように、前より激しく戻ってくることも少なくはありません。

対症療法は、病気(気の病)そのものと取り組むのではなく、病気の(身体的ないし精神的な)表現である症状と闘っています。これには限界があります。病気は限られた身体の局部(患部)だけの問題ではなく、生命体の全体が絡む不調(その元気の縺れ、気の病)だからです。

ところで、日本語の「病気(病んでいる気)」という言葉はとても優れた表現だなぁと、ドイツ人の僕としては時々羨ましく思います。ヨーロッパの言語の中でなかなか病気の本質をあれほどストレートに現す言葉が見つからないのです。ちょっと残念なのは、日本の病院で毎日何百回も「病気」という言葉が使われているのに、患者も医者もその言葉の文字通りの意味を忘れてしまっているところですが……

病気は身体の限られた場所(患部)を自分の表現の場として選んでいます。その患部に表れる不調を局部的に処置し、その病気の表れ方(症状)を抑えると、病気はその第一の表現の場を失ってしまうことになります。そうなるとこの不調(気の病)が、やがて違うところを自分を表現の場として選ぶのです。

簡単な例を挙げてみましょう。僕がこれまでに診た、気管支喘息に悩む患者さんの病歴を見てみると、大半が皮膚の強い不調を薬(ステロイド剤か亜鉛軟膏)で「治した」ことがありました。僕からすれば、皮膚に表れたその人の生命力の縺れが、対症療法で抑えられたために表現の場を失い、次に(何年後というケースもあります)違う場所を選んだということにすぎません。気管支は(人間の身体をチューブとして見たときに)、体内に裏返しにした皮膚の一部です。外側の皮膚の不調として表現できなくなった気の病が、気管支喘息という形を取っています。病気の症状が局所的に抑圧されると、残念ながら殆どの場合、その次に表れるのは、身体の奥の、より複雑な治療を必要とする場所(より重要で、よりデリケートな臓器)に移動することが多いのです。

それではアーユルヴェーダや漢方のような、よりホリスティックな医学と対症療法の関係はどうでしょうか。理想論からすれば、答えは簡単です。ホリスティックという言葉が物語るように、これらの医学が対症療法を嫌って、(人間や宇宙の)全体を踏まえて患者を元気に戻そうとするアプローチを優先しています。ただし現実を見てみると、対症療法との境界線がかなり曖昧なところも多いようです。自然素材で作られた薬とは言え、慢性的な便秘を漢方の「防風通聖散」を毎日飲んで解消しようとするのは、対症療法そのものです。皮膚の赤みとかゆみをなくそうと、毎晩風呂上がりにアーユルヴェーダのオイルを塗ることも同じことです。もちろん、問題はこれらの医学にあるのではなく、医者と患者によるその使い方にあります。あまりにも近代医学の対症療法的な考え方やスタンスになれている現代人が、ホリスティック医療を選んでも、それを近代医学と同じように対症療法的な枠組みに応用したり、施してしまう点に注意が必要なのです。ホメオパシー医学もその例外ではありません。前のブログでも触れたように、ホメオパシーという名前で出されたコンビネーションレメディーは、まさに対症療法的にねじれてしまった例のひとつです。

近代医学の発展とともに、主流になった対症療法的な医療姿勢は、「早い」「きれい」「機能的」「便利」を奉る現代社会の合理主義と機能主義にぴったり合います。この視野の中に入ってしまうと、病気やその症状が「邪魔」「故障」「避けるべき、無くすべき悪もの」としてしか考えられません。従って近代医学は最初から、病気と「戦う」というスタンスにあります。菌を殺す。ガンと闘う。病気の制圧と撲滅。近代医学のボキャブラリーが見事に物語っています。病気は闘わなければならない敵。近代医学は病気という敵との戦争状態にあります。

けれどもよく考えれば、病気は「生きること」をよそから脅かすものではなく、「生きること」のなかの一つの出来事です。病気も元気のうち。病気は人間の「生きること」(人生、生活、生命)と全く関係無くたまたま近寄ってくる邪魔ものではありません。その「生きること」の源である、生命力の乱れや縺れの表れです。