クラシカル・ホメオパシー

近代医学にとって、ホメオパシーの                 「理解し難い」ところとは?

一般の人にホメオパシー医学を紹介する時に、一番驚かれるのは、ホメオパシーのレメディーです。あれほど高度に希釈され、あれほど微量で服用するものに、なぜ病気を治す力があるのか?実は、近代医学の医者との会話のなかでは、レメディーについてそれほど驚かれることがありません。なぜかといえば、近代医学でも、作用機構が解明されていない薬がたくさん使われているからです。作用機構を説明できなくても、臨床経験から効能がわかればそれで十分。厚生省と健康保険の認証があれば薬として投与されます。

では一般の医者にとってホメオパシーがもっとも不思議で理解し難い点とは何か?それは、患者が必要とするレメディーを処方するために「病名が要らない」というところなのです。もちろん、僕のところに来る患者も、多くの場合、病院で診断された病名があります、僕にも、その病気と病理が近代医学でどのように説明されているのは分かリます。けれども、そのことはレメディーを決める上であまり大切なことではありません。ホメオパスは、病名ではなく、病気になった本人の具体的な症状と調子を手がかりにしてレメディーを選ぶのです。

単純な例を挙げてみましょう。まず、花粉症。西洋医学が一般的に施す処置は、(ほとんどのアレルギー反応の場合と同様に)対症療法的に炎症を抑える薬(抗ヒスタミン剤かステロイド剤)の処方です。ホメオパシーでは、花粉症を助けるレメディーが100種類以上も知られています。その中から、本人に合ったレメディーを決めるため、その人が花粉にどう反応するのか、具体的にそして細かに把握する必要があります。

鼻水、かゆみ、くしゃみなど、花粉症の典型的な症状がすべてあるか?何が一番気になるか?どんな症状が一番苦しいか?出ない症状もあるか?時間帯ないし居場所によって、調子が変わるか?夜の方がしんどいか?朝の方がしんどいか?家の中と家の外はどのように違うか?涙と鼻水の質はどうか?くしゃみは何によって誘発されるか?くしゃみの様子はどうか?耳のかゆみは?口の中と喉はどうか?炎症しているか?乾いているか?痒いか?他に痒いところがあるか?呼吸はどうか?喘息っぽい症状が絡んでいるか?頭痛や頭の重たさは?寝るときの調子はどうか?花粉症になって、食の好き嫌いが変わったか?気分と気力はどうか?などなど。

このように患者の個人的な自覚症状を丁寧に聞くうちに分かってくるのは、花粉症の種類は、患者の人数と同じぐらい存在するということです。その数えきれない多くの花粉症たちを、一つの病名で括ってしまうのは便利かもしれませんが、正確ではありません。

ホメオパスが、患者さんと話すときに病名をあまり使いたがらないのは、そのためなのです。止むを得ず口にしなければならない時は、ホメオパスはよく「一種の花粉症」、「一種のリューマチ」、「一種の肺炎」などの言い方を選びます。病名にこだわりすぎると、悩んでいる患者の個人性、その人独特の症状と病気の現れ方が見えにくくなります。ホメオパシーでは基本的にこのように「個人化された診察」を治療の出発点にします。そして、そのためにホメオパシーには長い時間をかけて確立され、時の試練を経た方法論があります。

対して、近代医学はほとんど真逆で、病名の診断を治療の出発点にします。患者が訴える不調を知られている病名に当てはめることができなければ、病院の医者はお手上げです。医者の毎日の仕事を見ていると、最も時間とエネルギーをかけ、そして一番責任を感じているのは、正しい診断とそのために必要な検査です。病名が決まれば、その後の処置は、ほとんど一定のマニュアルのように決まっています。この病名ならこのアドバイス、その病気ならその薬、あの病気ならあの手術。あるいは病名をより細かく決めるための再検査、、などなど。

フィラデルフィアで活躍したホメオパスのジェームス・タイラー・ケント(James Tyler Kent 、1849–1916)の有名な言葉があります。
“There are no diseases, but sick people.”
「病気はありませんが、病んでいる人はいます。」
ホメオパスにとって、一定の形を持つ、定義できる、捕まえられる「もの」のように、単独に存在しているような「病気」はありません。実際、現実にあるのは調子を崩した人だけです。その崩れた調子は、一人一人によって独自な形、特有な症状として現れます。その人を助けるためには、抽象的な病名ではなく、その人独特の調子の崩れ方を把握する必要があります。

上記のケントの言葉を、近代医学の枠組みに置き換えてみますと、こういう言い方になるでしょう。
“We do not look at sick people, we look at diseases.”
「病んでいる人は診ません、病気を診ます。」
少し極端な言い方かもしれませんが、病院で、自分の顔を見ないで、PCの画面と検査結果ばかりをみつめている、無口な先生の前に座ったことのある人なら、その言葉のリアリティにピンとくると思います。

そもそも、ホメオパシー医学と近代医学の目的は同じです。病気になった人をできるだけ早く再び元気にさせたいのです。ところが、その道筋はかなり違います。近代医学が病気を敵にして、それを抑える、やっつけることで、病を人から取り除こうとする。ホメオパシーの基本的なアプローチは戦うことではなく、応援することにあります。そのため「病気」というより、病んでいる人を診て、その人に病気を治せる力を与えようとするのです。的確に処方されたレメディーは、病人の自然治癒力と生命力を活性化させる力があります。その服用で、病気を乗り越え、元気を取り戻すようになるのです。

次に、肺炎を例にして、その差異をもうすこし具体的に見ましょう。なかなか治らない咳があり、肺炎の疑いで病院に行くと、鑑別診断で、この咳が本当に肺炎によるものなのか、あるいは風邪、気管支炎、結核など別の原因があるかを診断されます。肺炎と診断されても、さらに何による肺炎であるかを調べます:細菌、ウイルス、菌類、寄生虫?あるいは感染型ではなく、違う病理を持っている肺炎なのか?仮に(感染肺炎の場合、一番多い)肺炎レンサ球菌(Streptococcus pneumoniae)が見つかれば、病院は、細菌を殺すための抗生物質を処方します。

十分長く服用すれば、大体の場合、細菌がなくなり、肺の炎症も引きます。炎症がなくなれば、病院側としては、これが「完治」です。(抗生剤服用によって細菌が消えても、その副作用によって体調がすぐれないケースも少なくありませんが、ここでは触れないことにします。)

ホメオパシーからすると、この「完治」の状態とは、正確に考えれば、発症する寸前の調子に戻ったに過ぎません。病気を根っこからの完治ではなく、発症前の調子の復元です。この段階はもはや、本人の本来の健康な状態と違います。なぜかといえば、レンサ球菌は生活環境に常に存在しており、元気な人がそれに感染しても、病気にならないからです。細菌が肺の中で異常に増えて、体が(それをやっつけようとして)炎症を起こさなければならないということは、その人の免疫力や生命力が、すでに以前からどこかで衰えかけていた、つまり本調子ではなかったのです。元気な人であれば、免疫力が本調子で働き、自身の体内に悪いものを増えさせることはありません。肺炎の発症は、もとより元気に欠けた体調、弱っている免疫力、調子を失った生命力の結果なのです。肺炎は、調子を崩した生命力の一つの症状に過ぎません。

この崩れた調子を(肺炎も含めて)根っこから治し、元気な状態を保ち続けるには、肺炎で病んでいる人の生命力を本調子(=元気)に戻すしかありません。これがホメオパシーの治療の切り口です。レメディーの服用によって生命力が活性化され、人間誰しも持っている自然治癒力と免疫力が再び強くなり、自分に害をもたらす細菌を自力で処分できるようになります。その結果として肺炎も治ります。

病人の崩れた調子を本調子に取り戻すレメディーを選択するため、ホメオパスは、その人の調子がどのように変わったのか、どういう形で崩れてきたのかについて、細かく伺います。元気が衰えたとき、調子の崩れ方とその様子は、人それぞれ随分違います。肺炎を手がかりに幾つかの例を挙げてみます。病気になってから、ときどき喉がすごく渇いて、時々ガブガブ飲む。あるいはずっと喉が渇いて、絶えずちびちび飲む。主に温かい飲み物を欲しがる。氷水しか飲みたくない。いっぱい汗をかいても、全然飲みたくない。体に触られたくない、声もかけられたくない。ほっといてほしい。人懐こくなる。慰められたい。落ち着きがない。不安そうな様子。イライライしやすい、怒りっぽい。特に夜に調子が悪くなる。毎日午後2時と4時の間に熱が非常に高くなる。足と手が冷たくて汗ばんでいる。胸が痛くて右下に寝れない。あるいは右下で寝ると咳が止まる。しんどくて、ベッドでずっと寝返りしながら落ち着かない。どんな動きも痛いので、ビクともせずに、じっと寝ている。汗をいっぱいかく。体温が高くても汗を全然かかない。汗が酸っぱい匂いする。右の肩甲骨の下がずっと痛い。炎症が肺のどこに広がっているのか?咳するときに、どこが痛いのか?そして病気になったきっかけや背景も大事な情報です。過労で調子を崩したのか?悲しい出来事?不幸な恋愛?長く不公平に扱われて、その怒りで病気になったのか?精神的なトラウマ?怪我や持病が背景にあるか?などなど。上記の花粉症のところでも述べたように、「肺炎」という一つの病気はなく、肺炎を抱えている人と同じ数だけの「肺炎」があるのです。

従来医学の教育しか受けていない医師にしてみれば、上記の患者さんの様子はただ個人的偶発的で、正しい治療を決める上で、何の意味も持たないものです。ホメオパシーは、これなしに病気を治療できません。ホメオパシーのレメディーの中に「肺炎」のレメディーはありませんが、それそれの具体的な不調で病んでいる人のためのレメディーはあります。そのレメディーを見出すうえで、ホメオパスは患者自身から得た自覚症状と、個人的な調子についてのデータと、200年の臨床経験で蓄積された、膨大かつ細密なレメディーの効能データをリンクさせる、システマチックな方法を持っています。近代医学の医師がホメオパシーを理解し難く、消化できないところはこの点です。

西洋の医学歴史の研究に著しい業績を残した、医学史研究者ハリス・コールター(Harris Coulter、1932-2009)は、近代医学とホメオパシー医学の隔たりを以下のように語ります。
“The piece of homeopathy that is most threatening to the conven- tional model is neither the idea of the similars nor the idea of the infinitesimal but, rather, the idea that the therapy most be indivi- dualized for each case and the homeopaths have a methodology for doing this. The idea that there are not a finite number of illnesses drives them crazy.”
「似たものを似たもので治すというホメオパシーの概念も、そしてレメディーをできる限り微量で処方する概念(超微量の原則)も、従来の医学にとってはそれほど大きな脅かしではありません。ホメオパシーの一番脅迫的なところは、治療は患者ごとに個別化された形で行われるべきという考え方と、ホメオパスたちがそれを実際にできる方法論を持っている点です。病気の数は限られていない、という考え方が、近代医学の医師を狂わせるのです。」
(Julian Winston,  The Faces of Homeopathy, 1999,  p. 264)