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正名:治癒と治療について
孔子が書いた論語の中に、こんな有名な話があります:孔子は「あなたが大臣だったら、まず何をしますか」と尋ねられたところ、こう答えました。「言葉が現実に合うように、名前を正します(正名)」なぜなら、言葉が正しくなければ、言葉の意味が混乱します。言葉の意味が混乱すれば、何事もできなくなってしまう(名不正、則言不順、言不順、則事不成、事不成)。
国を治めることと病気を治すことは多少違いますが、政治と同じように医術も言葉が正しくないと、何事もできなくなってしまう危険があります。これから、数回に亘り、このブログで、医療における言葉の使い方の順当さについて考えたいと思います。今回はまず、「治療と治癒の違い」についてです。
「療」と「癒」は明らかに違うものですが、その点について、患者と医者の間に微妙な食い違いがあります。病人は治癒を求めて、医者を訪ねます。「先生、治してください!」しかし、医者が病人にしてあげられるのは、治癒でなく、治療です。
医学と医者の任務について、考え方と期待のギャップがあります。患者が最も欲しいのは治癒ですが、医者が病人にしてあげたいのは、一番良い処置です。もっと正確に言えば、昨今、最も研究され、且つ証明された(一般的に)最良と思われているセラピーです。医大で勉強するのは、「治癒とはなんですか?」ではなく、病気の診断とその処置です。健康保険システムを通じて、国民一人一人は「治療される」権利が保証されていますが、「治癒される」権利はだれも保証しませんし、できません。
もちろん、病人が医者の処置をきっかけにまた元気になれば、それに越したことはありませんが、医者の治療が必ずしも患者に治癒をもたらすとは限りません。
Medicus curat, natura sanat(メディクス・クーラト、ナートゥーラ・サーナト)という言葉があります。「医学の父」として評される紀元前4世紀のギリシャの医者、ヒポクラテスに由来があると思われる言葉です。医師は治療し、自然が治癒する。医師は治療を施すが、治癒するのが自然だ。自然が病気を治す、医者がそれを治療によって助ける(促す)。色々なニュアンスで捉えてきた言葉です。
というのも、病人や病気を治癒するのは、治療する医者ではなく、患者本人です。もっと正確に言えば、生き物である病人自身に、本来備わっている自然治癒力、自己治癒力です。医者の仕事は、治療を通じて、病人の自然治癒力の働きを、病気を治癒するように、適切に(自然の摂理に従って)活性化させることです。
単純な例:包丁で指を切ったとき。その傷は自然に治ります。「自然に」というのは、生きている体に備わっている自己治癒力が、自分が受けた傷を自分で治します。第三者(医者、家族など)が傷ついた人のためにできるのは、手当や処置です。その手当が上手なら、傷は早く、後遺症もなく治りますし、手当が下手であれば、治るのに時間がかかり、スムーズに進みません。この処置が傷ついた本人の自己治癒の働きを適切に応援するかどうか。あるいは、その働きを邪魔するかどうか。手当の良し悪しは、治療者が自然治癒力をどこまで認識、理解するかによって決まってきます。切り傷はとても簡単な例ですが、基本的に、これはもっと大きなダメージの場合でも、どんな病気や不調にも当てはまります。
「Medicus curat, natura sanat」という、治癒と治療における大事な違いを見失えば、医者と患者の関係、そして医療の在り方が大きく変わります。簡単に言えば、病気を治すことはイコール、一種の修理になってしまうのです。
患者が自分の病気を故障のようなものに捉えられ、受け身的に(医師という)修理屋にその改修を頼む。逆に医者が自然治癒力の働きとその適切な応援のしかたを知らないと、医者の治療が部分的な修理に止まります。傷んだところを直す(修理)と病気を治す(治癒)は、重なるところがあっても、基本的に全く違う医療のスタンスです。
近代になって、医療が主に化学治療(薬剤)と手術に集約されるようになるにつれ、医療の主流は、修理です。そして医療機関や病院は、大きな修理工房としての性格が強くなりました。
現在、医療の最先端として期待されている、AI医療と再生医療の分野で使われている言葉がその修理工房的性格や傾向を見事に語っています:「細胞の欠陥を修復と修正」、「iPS細胞を用いた移植手術」、「細胞培養加工」。これは機械を直すエンジニアの言葉です。医者と医術の響きは、ここには感じられません。
この方向に進歩しようとする医学が、いつか成功し、人間の体を治癒する技術に到達するのか?あるいは、原子力発電に似たように、もっと進歩する新しい科学や技術(例えば、太陽発電など)によって、近代のゴミ捨て場に残るものになってしまうのか?そのテーマは、哲学と深い関係があります。
生きている体の「生きること」、そして生きている人間、その「生命」とはなんでしょうか。高度で精密な機械の働きのようなものなのか。それとも、たくさんの(数値化できる)化学的物理的な機械的作用を含んでいても、その源は、基本的に機械的作用や働きとは比較できないものなのでしょうか。
こういう質問に変えてみましょう。最高の AI が搭載されているロボットは、病気になれますか?それとも、故障しますか?病気になれるのは、生き物の特権です。機械は病気になれません。機械は壊れる。そしてもう生きていない、死んだ生き物も病気になれません。生命力のあるものだけが病気になります。
このテーマに深入りはしませんが、生きることは、敏感であること、感受性を持つことと密接に繋がっています。死んだものには感受性がありません。生きるというのは、敏感である、感受性を持つことです。そして感受性がある限りは、生き物が病気になる可能性は避けられないのです。逆に感受性の全くないものは、バランスも失えませんし、病気にもなりません。
ともかく、近代医学と医療の大半は、極めて過剰に単純化された「生命」の想像と理解の上に成り立っていて、そしてそのがさつな考え方を推し進めようとしています。それによって、「medicus curat, natura sanat」が指し示す役割分担を、ほとんど忘れているようです。患者と、その自己治癒力を応援する医術ではなく、懸命に修理的な治療に集中する技術者になっています。
人間(生き物)の自己治癒力を相手にするホメオパシーは、それとは対照的なスタンスを持っています。生き物に自然に備わっている自分を治癒できる力は、(無限ではなくても)、我々人間の想像をはるかに上回る力だという事実を踏まえながら、この自己治癒力をを生かすシステマチックな方法論を追求する医学です。
次回は、「病気」と「症状」について書こうと思います。
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