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2013.04.15

Hahnemann in America

ワシントンD.C.のホワイトハウスを背にして、16th Street Northwest‬を真っすぐ北に行ったところにScott Circleという大きな六叉路があります。その交差点の東側に、Hahnemann Memorial(ハーネマン記念碑)が立っています。ホワイトハウスから歩いて15分もかからないところです。

(ワシントンD.Cのハーネマン記念碑)

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私の知るところでは、ホメオパシーの創立者Samuel Hahnemannの世界で一番大きく立派なモニュメントです。アメリカ•ホメオパシー研究所(AIH, American Institute of Homeopathy)によって建てられたこの記念碑は、1900年6月21日、当時のアメリカ大統領ウィリアム・マッキンリー‬の臨席のもとに除幕式が行われました。

(1900年6月21日の除幕式)

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アメリカにおける業績がないどころか、アメリカ大陸に足を伸ばしたこともないドイツ人のハーネマンが、どうしてアメリカの首都にこのような記念碑を立ててもらうまでになったのでしょうか。答えは簡単です。1900年頃、アメリカには20校以上のホメオパシーカレッジ、150以上のホメオパシー病院(それも30ベッド以上の病院だけでも)、そしてAIHの推測のよると、大体15.000人のホメオパスが存在していました。ホメオパシー医学が当時のアメリカの医療システムに大きく貢献していたことが分かります。

現在のアメリカの医大や病院の歴史を遡って昔の名前調べると、その歴史的な背景が見えてきます。New York Medical Collegeは1938年までNew York Homeopathic Medical Collegeでした。PhiladelphiaのDrexel University College of Medicineのルーツは、1848年に設立されたHomeopathic Medical College of Pennsylvaniaにあります。その大学病院は現在もHahnemann University Hospitalという名前がついています。Boston University Medical Center Hospitalは、1855年にMassachusetts Homeopathic Hospitalとして始まりました。そしてあの有名なBoston University School of Medicineは1873年にMassachusetts Homeopathic Medical Societyの主導のもとによって設立されました。

アメリカにおけるホメオパシー医学の始まりは、1820-1830年代に遡ります。そしてさほど時間がかからないうちに一般的な医学の一つとして普及しました。全盛期に活躍した有名なホメオパスの名前を挙げてみましょう。Constantine Hering (コンスタンティン・ヘリング 1800-1860), A. Lippe (1812-1888), W. Wesselhoeft, (1794-1858), H. C. Allen (1830-1909), B. M. Fincke (1821-1906), S. Swan (1814-1893), J. T. Kent (1849-1916), T. F. Allen (1837-1902), W. Yingling (1851-1933), E. B. Nash (1838-1917), W. Boericke (1849-1929)などなどがいます。彼らが本や雑誌に残した豊かな臨床経験、レメディーのプルービングや研究なくして、現代のホメオパシーは考えられません。僕は、昨今書かれたホメオパシーの関係書を十冊読むより、この時代のホメオパスの本を一冊じっくり読んだほうが勉強になります。

(Constantine Hering, 1800-1860)

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こういう優れた医師のお陰で、ホメオパシーは19世紀のアメリカにおいて大輪の花を咲かせましたが、皮肉にもハーネマンの記念碑が立った1900年頃、アメリカのホメオパシーに退廃の陰りが忍び寄っていました。ホメオパシーという名前の医者、カレッジや病院はたくさんありましたが、そこで実際に教えられ、行われた医療と医学を調べると、ハーネマンが提唱したホメオパシー(クラシカル•ホメオパシー)からは随分離れていて、その基本的な原理と理念が曲げられ、厳しい意味ではもうホメオパシーとは呼べないようなホメオパシーでした。

ホメオパシーのレメディーと併用して、ちょうどその頃に流行し始めた製薬会社の科学的な薬を使う(実はこの薬もドイツ発祥でした)。個人の診療をせずに、あの病気にはあのレメディー、この病気にこのレメディーと、対症療法的に診断する。レメディーで治すことを考えずにすぐ手術を勧めるなど、元来のホメオパシーから離れた治療が主流になったのです。

AIHの1900年代の公刊誌を見ると、それがよく伝わって来ます。もちろんホメオパシー的な治療についての論文もありますが、同時に「患者さんを安静させるためモルヒネを使う」「 肥大した扁桃腺を手術で取る」「帯状疱疹を放射線で抑える」など、アロパシー的処置を勧める論文もたくさんあります。それから製薬会社の広告も。

こうして今、ハーネマンのブロンズ像の顔を見てみると、ちょっと厳しい表情に映るのは、僕の深読みだということにしておきましょう。ただ、ハーネマンが自分の記念碑の除幕式に集まってきた多くの医者達が、ホメオパシーの名前のもとで実際どんな仕事をしていたかを知ったら、いやそれはきっとすごく怒って、この場を立ち去ったんじゃないかな、という気持ちになります。

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どうして50年もの間、高いレベルで普及してきたアメリカのホメオパシーが、あれほど早くだめになったかについて色々な説があります。ホメオパスの派閥間の喧嘩。製薬会社の圧力による法的枠組みの変化。中でも一番大きな原因は、当時のメディカルカレッジの商業化だったと言われています。たくさんの学生を得るために入学のハードルを低くする。設備や教育のコスト軽減。カリキュラムの簡略化。習得に時間と経験を要するホメオパシーに、システム化された学習体系によるアロパシー医学を混ぜて教える。そして簡単に卒業させる。きちんとしたホメオパシー教育を受けていない人にも、ホメオパスという肩書きが与えられたことによって、1870年代からホメオパシーが段々とその形と意味を失っていきました。1876年からAmerican Institute of Homeopathy がホメオパシーを勉強したことのない医師たちにも入会を許したという事実が、ホメオパシーの自己解体を象徴的に示しています。

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しかしホメオパシーの危機を感じたある小さなグループが、1880年にIHA (International Hahnemannian Association)を発足させたことにより、現在のアメリカのホメオパシーは本来の意義に立ち戻っています。アロパシー医学とホメオパシー医学の混合を進めていたAIHに対して、IHAのメンバーは地道な活動を続け、ハーネマンの教えたホメオパシーを正しく伝承したことから、ハーネマンの原理に基づくホメオパシーがアメリカで消えずにいたのです。その後、1950年代にAIHは再びハーネマン的なホメオパシーを見直し、AIHとIHAが合併しました。現在はAIHと名称を統一し、アメリカにおける一番大きなホメオパシー医学の協会になっています。

余談ですが、ハーネマンの記念碑の保存と改修のため、AIHが基金運動を行っています。

アメリカにおけるホメオパシーの歴史と現在について、詳しくて読みやすい本があります。なかなか面白い本です。
Julian Winston, The Faces of Homeopathy. An illustrated history of the first 200 years, Tawa 1999

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