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19世紀の名ホメオパス James Compton Burnett(1840-1901)
„The medical profession at large contemn homoeopathy, they know nothing about it. There was a time when I also contemned it, ー I also then knew nothing about it; but now, having studied it and practised it, my airy contempt has given place to humble-minded thankfulness, and I maintain that homoeopathy ー real scientific homoeopathy ー is the most mighty weapon against disease known to mankind.“
「大体の医療従事者たちはホメオパシーを蔑んでいて、ホメオパシーについて何も知らない。私もかつてホメオパシーを軽蔑していた時があった。私もまた何も知らなかったのだ。しかし、ホメオパシーを学び、実践してきた今、私の軽蔑は謙虚な感謝へと変わった。私はホメオパシーが、つまり本当の科学的なホメオパシーが、人類が知っている病気に対して最も強力な武器だと確信している。」
„You ask how it then is that with all the merits which I claim for homoeopathy, its practitioners should be in "such a contemptible minority in the profession " I presume being in the minority does not necessarily mean to be in the wrong? I suppose you hold that the world moves ? There was a time when those who said so were in the minority, and not very far from the stake if they dared aver their belief!“
「私がホメオパシーのあらゆる利点を主張しているのに、その従事者が「医療専門家たちからこんなにも軽蔑されている少数派」であるのはなぜか、とあなたは私に尋ねます。私は、少数派だからといって必ずしも間違っているとは限らない、と考えています。 あなたは地動説を信じていますね?かつてこういうこと主張する人は少数派で、それを主張すれば火刑台に立たされかねない時代もあったのです。」
„The greatest enemies of homoeopathy are often its own weak-kneed or incompetent practitioners.“
「ホメオパシーの最大の敵は、多くの場合、その弱腰な、あるいは能力のない実践者たちだ。」

1901年5月のThe Monthly Homeopathic Reviewに発表されている死亡通知において、 James Compton Burnett(ジェームス・コンプトン・バーネット)は以下のように語られています。
「バーネットは、非常に珍しい、人並みはずれた性格と気質の持ち主だった。…. 無骨で重厚なタイプで、どこまでも率直で直情的。中途半端なことは許さず、自分の感じたことを自由に話し、自分が正しいと確信している限り、自分の言ったことが他人にどう思われようと気にしなかった。巨大な頭と鋭く力強い表情は、彼の精神的、道徳的な特徴を十分に物語っている。彼は患者に対して絶大な力を持っていて、その魅力的な人柄は、彼に相談するすべての人に感銘を与え、最大限の信頼を抱かせた。それだけでなく、医師が持ち得る最も貴重な天賦の才である、真の愛着と尊敬を引き出す才能も持っていた。彼は最高の意味で強い男だった。彼のパワーと強さを最も引き出したのは、自分の職業、特にホメオパシーへの熱狂的な献身だった。彼の人生はそのためのものだったと言っても良い。ホメオパシーと、それがもたらす素晴らしい治癒力に対するバーネットの信念がいかに揺るぎないものであったのかは、誰にでも、特に彼の患者には、よく分かるところだった。」
2024年にバーネットの本を読んでも、バーネットの信念、情熱、頑固さと鋭さが、生々しく伝わってきます。
バーネットは、1840年にスコットランドの田舎で生まれました。実家は家系の古い、豊かな地主の家でした。当時の一般的な教育を受けた後、16歳の時にフランスの学校へ送られて、卒業後は数年間ヨーロッパを転々としながら、主に言語学を勉強しました。こうした言葉や言語表現に対する愛情と関心は、後のバーネットのホメオパスとしての豊富な執筆活動からも強く伝わってきます。やはり言葉の世界だけでは物足りず、医学の道を選び、1865年にウィーンで医大に入学しました。当時は2年間で医学学士(Bachelor of Medicine)を卒業できましたが、バーネットは解剖学の研究をより深めたいと思い、さらに2年間大学に在籍しました。解剖学での功績が認められ、金メダルを受賞し、1869年に卒業しました。
ちなみに現在、ウィーン医大の病理解剖学アーカイブは、世界最大の病理標本コレクションとして知られており、その中にはバーネットが作った標本も含まれているそうです。ウィーン医大を卒業した時点では、バーネットは従来のアロパシー医学の素直な門徒でした。後にホメオパシーの大御所になることは、夢にも思わなかったでしょう。
その後、バーネットはさらにグラスゴー大学の医学部に入学し、1876年にM.D.(Medical Doctor)として卒業しました。この資格のために2年間の医療実践が義務つけられていたため、1872年から1874年の間、バーネットはBarnhill Parochial Hospital and Asylumという、当時グラスゴーで一番大きな、孤児院と貧民院の付属病院に務めました。そこで経験したことが、バーネットを当時のアロパシー医学の優秀で素直な門徒から、ホメオパシーの医師へと転向させたのです。その具体的な経緯については、また別のブログで紹介したいと思います。お楽しみに。
1877年にロンドンでホメオパシーの診療所を開業してからこの世を去るまでの23年間、平日は自営の診療所と London Homoeopathic Hospital (ウェブサイト)で診療し、週末にはブライトン(Brighton)に住む家族のもとに帰るという生活を送りました。「ロンドンで開業したものの、ロンドンに長く住んだことはなかった。機会があれば自分の土地で農業を営み、家畜を育て、荒れ地に木を植えた。自分の苗木が成長するのを見るのは、彼にとって無上の喜びであった。」(J. H. Clarke, Life and Work of James Compton Burnett, 1904)PDF

バーネットは雄弁で、言語表現の達者な、多作な作家で、20冊以上の本を書きあげました。どれを読んでも、インスピレーションを得ながら、勉強させられます。次回のブログでは、バーネット主な著作をリストアップします。
さて、「ワクチノシス」(Vaccinosis)と「オルガノパシー」(Organopathy)という二つ概念は、ホメオパシーの世界で、一般的に定着していますが、両方ともバーネットがホメオパシー治療に取り入れたコンセプトです。
19世紀後半、富裕層の間では、天然痘のワクチン接種を受けるのがモダーンな治療として人気がありました。バーネットは自分のロンドンのプラクチス(診療)で、このワクチン接種による短期的また長期的な体の不調をよく診ました。その不調を「ワクチノシス」(ワクチン病)としてまとめて著しました。予防接種のメリットとデメリットについて、現在でもホメオパスの意識が非常に高いのは、バーネットのワクチノシスの症例の記述のおかげです。
「オルガノパシー」(Organopathy、ドイツ語: Organopathie)は元々、ハーネマンと同時代のドイツの医師、ヨハン・ゴットフリート・ラーデマッハー(Johann Gottfried Rademacher、1772-1849)によって提案された治療法です。バーネットはこのコンセプトをホメオパシー治療に積極的に取り入れています。
というのは、慢性病の治療の経過に際して、時々、患者の全体としての治癒を妨げるほど、特定の臓器(心臓、肝臓、腎臓など)が機能不全になったり、傷んだり、弱った状態に陥ることがあります。その場合、全体の調子よりもまずこの臓器を元気にするため、その臓器を集中的に治療する必要があると、バーネットは説明しています。このために、それぞれの臓器に特化した薬効を持つ、「オルガンレメディー」(organ remedy、ドイツ語:Organmittel)を使います。バーネットがホメオパシー的に生かした「オルガンレメディー」と「オルガノパシー」は、現在一つの方法論として一般的にホメオパシーに定着しています。
19世紀最後の20年の間、ロンドンでは、クーパー・クラブ(Cooper Club)と呼ばれた、当時一番創造的で、偉大なホメオパシーの医師たちの有名な集まりがありました。メンバーは、バーネットと、トーマス・スキナー(Thomas Skinner、1825-1906)、ロバート・クーパー(Robert Cooper、1844-1903)とジョン・ヘンリ・クラーク(John Henry Clarke、1853-1931)でした。みな個性豊かな、純ハーネマン的なホメオパスで、当時のロンドンで一番活躍していたホメオパシーの医師でした。当時の大御所の勉強会のようなクラブでした。毎週一回定期的に集まって、一緒に晩御飯を食べてから、自分の臨床経験を話し合ったり、意見を交換したり、お互いに刺激を与えながら、自分の腕を磨き続けました。
残念ながら、クーパー・クラブのミーティングの記録はありませんが、この4人の臨床観察、治療経験と知恵は、1900年に出版されたクラークのマテリア・メディカ(A Dictionary of Practical Materia Medica)に多いに含まれています。
クラークの目から見れば、ジェームス・コンプトン・バーネットは19 世紀最後の20年間の「ホメオパシーにおいて最も力強く、最も実り豊かで、最も独創的な力を発揮してきた」医師で、「バーネットには、他の誰よりも素早く事態の中心へと導く率直さがありました。ユーモアに富んだバーネットの陽気な目の輝きと笑い声は、彼を知るすべての人々の記憶に長く残るでしょう。」(J. H. Clarke, Life and Work of James Compton Burnett, 1904)
ちなみに、癌や腫瘍の病理と治療についてのバーネットの考え方は、昔のブログで、詳しく紹介されています。
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